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2018/06/06

日本初演100年目、第九演奏会! 故冨田先生を偲ぶ

 先週、鳴門市でベートーベン交響曲第九番の演奏会のニュースがありました。

 第九が初めて日本で演奏されて100年それは鳴門市から、というニュース。(新聞ではアジアで初演も確認された、とも。)

 初めて演奏会があったのは、1918年の6月1日。場所は、徳島県鳴門市の板東俘虜(ふりょ=捕虜)収容所。ドイツ人の捕虜が1000人規模で住んでいた所です。捕虜が住民も招いて演奏会をしているんです。

〜〜〜

 この板東俘虜収容所の中で発行されていたドイツ語の新聞を手に入れてマメに翻訳されていたのが冨田先生。私が大学生の時のドイツ語・近代史・文化学系の講義の先生です。残念ながら私が在学中の1988年に62歳でお亡くなりになりました。もう30年前の話です。(※下に余談)
 →私お葬式には参列できなかったので、あとから奥さんとお会いしたり、確か1周忌か3回忌のお供えを送った記憶があります。

 この冨田先生から、「文化」というキーワードを教えて頂きました。いや、教わるというよりも、「自分で考えること」それ自体を教えて頂いたように思います。

 研究室によく遊びに行っていました。というかドアに「油、買います」という看板が掛かっているんですよ。・・・つまりここで油、売ってください、という意味♪

 もの凄く気さくな先生で、インスタントコーヒーとか砂糖とか置いてあって、一杯50円くらいで貯金箱にお金入れる感じで、何人かの友人と日頃は出来ない話や議論、、、まぁだべるって感じの会話を大きなソファーのところで友人と喋っていました。
「コーヒー無くなったなぁ、だれか買ってきて。お金いれてないやつがいるな〜ちょっと足りない感じ」みたいな。

 私の大学は、工学部だけの地方の国立大学だったので、はっきり言うと人文科学系の授業は何かにつけおざなり(^_^;)。で、そちら系の先生は受け持ちの学生がいないので、自分の研究には没頭できる、けれど、学生との接触という点では物足りなさが先生にはあったのかも知れません。
 先生のご自宅は名古屋でしたが、大学の近くの官舎で単身赴任。年に何度かはこの官舎で鍋大会なんかもしました。

〜〜〜
 もし生きていらっしゃれば、私の母より1〜2歳上の年齢だから92歳くらいのはず。
 陸軍航空士官学校を出ているとはいえ、終戦は二十歳そこそこ。
「俺は、あの時に死んでいたはずだ」とよくおっしゃってました。
 一度、「当時はどんな気持ちで過ごされていたんですか?」と聞いたことがあります。

「どう死ぬか、ばっかり考えてたな」と。

 自分の青春時代が戦争期=もの凄く息苦しい時代だったのに、それより前の第一次大戦のときのドイツ人捕虜の方がいろんな文化的な活動をしていたと知った時の驚き。これが先生の「収容所の新聞の研究」の動機だったんだろうな、と今なら思います。

 そう、収容所といっても当時、もの凄く「文化的な生活」なのです。
 第九演奏するくらいオーケストラがあって、牧畜や農場ももっていた収容所。冒頭で「1000人規模で住んでいた」と書いたのにはこんな理由があります、「収容されていた」とは全然イメージが違う。

 ・・・徳島新聞の連載記事をネットで見ると、地元の人との交流も盛んで
    ある意味、いろんなヨーロッパ文化を伝えた側面もあるんだなぁと。

 工夫しながらモノを作ったり・文芸を楽しんだり・人々と交流する・・・たぶんこれが文化的な生活で、他の動物にはできないこと。
 とくに最後の交流は、単純な近所づきあいではなく、また、現代の「ワタシ売る人・アナタお金払う人」や「教える人・教わる人」や「雇う人・雇われる人(労使関係)」でもなく・・・

 今の流行言葉で言えば、お互いが「リスペクト」しあえる人間関係。尊敬・敬愛できる関係。これがないと交流とは言えない。
 →だから当時のドイツ人捕虜たちは積極的に住民と交流をもった。

 これがヨーロッパ文化の奥行きの深さ! と言い切って良いのかどうか私には分かりませんが、そんな気がしています。
(最近、こういうリスペクト関係が薄れていっているのが気になるんですよね〜。
 自分が一番正しいと思う“我が儘社会”・“孤独社会”・・・の到来)

〜〜〜ところで、私が恩師と思っている先生は3人います。

  大学時のゼミの先生と、中学時の国語のN先生。それに上の冨田先生。
 (高専は先生も学生も家族みたいな濃密な関係だったので選べない。)
 なかでも冨田先生からは人間的な部分を教わったので、私の人生に一番影響を与えているように思います。

 お亡くなりになって30年、ということは来年・再来年くらいに33回忌があるんだよなと思いつつ、「あるかな・ないかな、だいたい奥さんもご健在かどうか分からないし、住所そのものが分からないなぁ。」
 とりあえず、昔を偲びつつ・感謝しつつ・ご冥福をお祈りしたいと思います。

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※本題とは関係ないのですが、当時の翻訳の機械の話。
 日本語DOS(DOS/V)でIBM5550(5インチフロッピー)時代・・・IBMがあちこちの大学に寄付したから覚えている人も多いはず。ラインエディタでした。カナ漢字変換が出来て間もない頃です。
 先生はこれの上位機種をお使いだったかな? 確か、日本語が印刷できるドットインパクトプリンタがめちゃめちゃ高かったような。。。
 ドイツ語の文書を見ながら、ブラインドタッチでそれを翻訳して日本語で文書化していく、当時昭和62年頃としてはスゴイ先生でした。「誤変換が多すぎて、あとから自分の打った文章が分からない時があるから、いつも原文と一緒に持ち歩く」とかおっしゃってた。
・・・ちょっと懐かしい(^_^)

 

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